2016年 05月 09日
梅田産経学園『フリートーク』5/6, 2016
実はこれ、今二回目の投稿です・・・。昨夜ほぼ完成!というところで、私の愛用ラップトップ(ノートパソコン)が固まり、上書きをせずにしていたので、全ての内容が消えてしまいました。(涙)最近ラップトップ働かせすぎてるから疲れちゃったのかな〜。
さて、翌日の今日、気をとりなおして書いています。
本題に入りましょう・・・。
この日のプレゼンテーションはS女史。
タイトルは、歌川広重についてです。浮世絵をご存知の方はよくご周知なさっているのではないでしょうか。
S女史はまず、浮世絵の絵師である、広重についての生い立ちを話されました。
寛政9年(c.1797)に江戸城のすぐそば、定火消屋敷、安藤毛家の長男として生まれた。13歳にして両親を相次いで亡くした広重は同家の家督として火消同心を継ぐ。幼少の頃から絵を描くことに興味のあった広重は15歳の時に、火消同心と絵師という二足のわらじを履くことを決め、当時最も人気のあった豊国に入門を希望するが門人が多いことから、断られ、そのかわりに豊国の兄弟弟子にあたる、豊広のもとに入門。師である豊広の絵は、派手さを抑えた静かな風画。当時とても人気のあった人気役者や美人画といった絵を描いた豊国とは違っていた。広重忍耐の時であるが、しかし後に豊広を師にしたことで、大きな転換期がやってくる。35歳がまさにこの転換期で風景画で大輪の花を咲かせ、絵師としての名声の座を自分のものにした広重であった。東海道五拾三次は江戸は日本橋から京都の三条橋まで、描いた錦絵はヒット作となる。
晩年の広重は1856年には仏門に入り、剃髪。そして2年後、62歳でコレラに罹患し、この世を去る。
次に広重の絵の特徴について、話されました。
なぜ、彼の絵は庶民に長いこと指示され続けたのか? 葛飾北斎も名所絵をジャンルの一つとして確立した人物であるが、彼の浮世絵と比べると北斎の絵にはどこかビビッドで、パンチがる。が、癖もある。この結果短時間で飽きられることが多かったようだ。それに比べ広重の浮世絵は、詩的な温もり、穏やかさや繊細さがあり、これが、長いこと指示されたひとつではないだろうか。とのことである。
そして、忘れてはいけないのが、透視図法つまり遠近法を用いた図法で、これを取り入れるにあたり平面的にならず、今日の風景画を見るように自然な表現の絵となる。この遠近法は18世紀中頃には日本に西洋から取り入れられていたとのこと。
次にS女史は広重の絵を7つのカテゴリーに分けて絵を紹介してくれた。(・・・)はこれを書いているT.Mのコメントである。
① 絶景 木であっあり提灯であったりある一つのオブジェを大きくドラマティックに描く。(彼がピン
ポイントをあてる視点が素晴らしい。このセンスの良さは本当に鋭くてビビッドだ。)
② 雨景 人が描かれていて、雨傘にあたる雨をうまく表現。シトシトと雨が降る風画であったり、ザー
ッと降る様子がうかがえる。
③ 雪景 一切の音を感じさせない白銀の世界を表現。とても詩的で日本の美を感じる。(冬の暖かさで
あったり、ノスタルジックさを感じさせるな〜。)
④ 夜景 ぼかしやグラデーションを使うことに夜の風画に深みを与える。(空に浮かぶお月さんをうま
く表現していて、当時江戸時代のまったりした時間の情景を感じさせてくれる。)
⑤ 風が吹く 横嬲りの雨をうまく斜線で表す風画であったり、火をおこしたときの煙がふんわりの空気
に漂うシーンなど、広重はうまく風画に空気の存在を表現している。
⑥ 艶景 エレガントなシーンもどんどん描いていく広重の絵。花鳥画の世界なども、風流である。
⑦ 活景 当時、江戸の人々がどんな暮らしをしていたかがうかがえる、のんびりとした、庶民の人々を
描いている。
現在東京で若冲の展示会が行われているが、S女史は広重派だという、ビビッドで厳か、というよりもどこか情緒的である広重の作品に愛着を感じるという。確かに私も広重の作品は詩的でノスタルジックを感じさせ、大好きである。
浮世絵はチームワークだ。絵師が一番注目されるが、彫師や摺師とのチームワークがあって浮世絵が完成する。
浮世絵は19世紀後半ジャポニズムブームに乗って欧州で人気となる。モネはなんと200点もの浮世絵のコレクションを保持していて、広重の作品が一番多くなんと55点。彼の雪な雨などのきめ細かい描写はモネの作品にも大きな影響を与えたそう。
S女史のプレゼンはいつも画用紙を用いたりと、まとめ方がとても上手で、聞き手は非常にわかりやすい。今回もとても興味深いプレゼンテーションとなりました。 Thank you!
次回のフリートクは5/21です。
by connection-eigo
| 2016-05-09 12:15